あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みな…

あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みなさんは独自の旅を楽しんでおります。長年やってきた「北海道ビューポイント」のWEBで人気のあるスポットを綴ってまいりたいと思います。

最近の記事

観光客が行かない富良野市の旅・前編

富良野市のはじまり 中村千幹(ちから)は福岡県三井郡に生まれ、福沢諭吉の生地に近いことから慶應義塾に入学し1896年(明治29年)北方開拓の志を持って渡道しました。 福岡県選出の代議士佐々木正蔵の名義で1300余町の土地貸下げを受け、同年滝川に入り現地調査を経て、旭川経由で翌年(明治30年)に現在の富良野市に入植しました。 中村の他北川清太郎、神代村次郎らが中心となり「越後組合農場」を設立。1899年(明治32年)には十勝線の鉄道工事が始まり、付近に約20戸の仮市街もでき

    • 北海道の山めぐり12 駒ヶ岳

      駒ヶ岳(こまがだけ) 駒ヶ岳は三山の総称ですが、全体の眺めはどこから見ても味わい深い山です。新日本百景の第一位に選ばれただけあって、大沼を挟んで対峙しており絵になる風景で人気があります。 札幌から向かうと、八雲町辺りから正面に二つの峰(剣ケ峰・砂原岳)と隅田盛のなだらかな稜線が落ちている構図は見る者を惹きつけます。森町を過ぎて、真後ろに回って駒ヶ岳は姿を大きく変えます。 かつては富士山のような円錐形でした。 度重なる噴火で中央部分が吹っ飛んだのでしょう。寛永17年(16

      • 北海道のむかし話21 門昌庵物語

        門昌庵物語(もんしょうあんものがたり)-八雲町熊石ー 八雲町熊石は平成合併によって太平洋の八雲町と一緒になりました。 蝦夷の頃の松前藩の領土は、日本海は熊石、大平洋側は八雲が日本の最北部で、それぞれ関所がありました。 松前家が、エゾ島を治める島主として豊臣秀吉や徳川家康から認められたのは、武田信広から五代目にあたる慶広よしひろの時代です。 この慶広は、福山(今の松前町)に殿様の住むのに相応しいように館(まだお城ではありません)や町を大きく立派にしました。 この慶広から、更

        • 北海道の岬めぐ12 日ノ出岬

          日ノ出岬 稚内と知床のちょうど中間地点に雄武町があります。 雄武は「おうむ」と呼びますがオウム真理教とは関係ありません。 アイヌ語の「オムイ」が町名の由来で、町を流れる川(雄武川)の河口が、風や潮流に運ばれた砂で塞がれていたことから(川尻・塞がる・所)の意味だそうです。 国道238号は岬を通りませんので雄武町の最も東にあたる沢木地区から海沿いに入り、オホーツク海に突き出したところが日の出岬です。その名の通り、オホーツク海から昇る日の出を拝む名所になっています。 地図で

        観光客が行かない富良野市の旅・前編

          北海道ゆかりの人たち 長谷川 海太郎

          長谷川海太郎(はせがわ かいたろう) 明治33年(1900)1月17日 ~ 昭和10年(1935)6月29日  日本の小説家、翻訳家。 林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて活躍しました。 林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、家庭小説、翻訳、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られています。 「姓は丹下、名は左膳。流儀は丹下左膳流」。悪人を斬って斬りまくる。 痛快娯楽小説は

          北海道ゆかりの人たち 長谷川 海太郎

          北海道人のルーツ11 土方歳三の死

          政府軍約8000人は、江差・松前方面、二股口開道、木古内間道口の三道から五稜郭目指して進撃します。 榎本軍は約3000人。半数にも達しない榎本軍を相手に政府軍は苦戦します。 政府軍参謀は、これほど勇敢な抵抗は戊辰戦争以来はじめてのことと語ります。 しかし、箱館湾の壮絶な海戦も、弁天砲台や千代ケ岱の奮戦もむなしく、また、五稜郭北方に急増した四稜郭も未完成のうちに陥落、一か月余の死闘ののち、5月17日、榎本は五稜郭を出て降伏しました。 政府軍参謀の一人黒田清隆は、榎本の人物を

          北海道人のルーツ11 土方歳三の死

          蝦夷の時代19 松前藩主二代目公広

          松前藩の財政の柱を「鷹」「砂金」「檜」と大まかに書いてきましたが、松前藩主を通して蝦夷の時代を見てみたいと思います。 徳川幕府と同じく松前藩主も15代で終わります。 しかし、幼少の藩主もおり名だけで14代という説もあります。 アイヌ民族最大の蜂起・シャクシャインの戦いがはじまる寛文9年(1669年)の5代藩主松前 矩広( のりひろ)までに何が起きていたのかです。 と言うのは、この戦いの後から事態は大きく変わっていきます。 この戦いの時、江戸幕府は徳川4代将軍家綱の時代でし

          蝦夷の時代19 松前藩主二代目公広

          北海道の山めぐり11 藤野三豊山 

          藤野三豊山(ふじのさんぽうざん)  札幌市南区藤野にある三山ですが、山の名称は地元の人によって名付けられました。 藤野地区は定山渓に向かう時に必ず通るところですが、開拓の時代は軟石の石山と次の簾舞は御料農場に挟まれた場所であったため、移住した人たちは出稼ぎに出ることが多く地元の開発が遅れていました。 このようなことから、開拓二世によって豊かな自然の観光発展の「郷土づくり」が行われたという経緯があります。 山名は藤野のレクリエーション構想で 下藤野山(スキー場の山)に豊

          北海道の山めぐり11 藤野三豊山 

          観光客が行かない函館の旅・後篇 四稜郭

          『函館×劇場版「名探偵コナン 100万ドルの五稜函館市電星」人気で函館市電もコンナとなり観光に一役かつています。 函館市内に10箇所あるラリースポットを巡って、5箇所でスタンプを集めると、オリジナルグッズがいただけるといいます。この10か所が今の観光スポットなのでしょう。 四稜郭 五稜郭はみなさん行かれる場所ですが四稜郭が近くにあることを知っている人は稀だと思います。また、知っていても行ったことがある人は皆無に近いと思われます。 五稜郭の北方約3km。 函館を一望で

          観光客が行かない函館の旅・後篇 四稜郭

          北海道のむかし話20 層雲峡の滝に沈んだ野盗

          層雲峡大函(おおばこ)の手前に高い山がある。 昔、日高の波恵(はえ)に勢力をもっていた波恵人(ハイウンクル)が野盗になってあばれておった時のこと。 ある日、大雪山を越えて層雲峡へ下り、川下の部落を襲おうと筏(いかだ)をつくり、流れに乗ってくだってくると、この山の裾すそが川に突き出たところオペッカウシ(尻を川の上に突き出す)にくると、裸の女が乳房をブラブラさせて踊っておった。 それを見つけた野盗達は、すっかり魅せられて、筏の梶(かじ)をとることも滝のあることも忘れて、滝壺深

          北海道のむかし話20 層雲峡の滝に沈んだ野盗

          北海道の岬めぐり11 ウスタイベ岬

          ウスタイベ岬 北見神威岬から国道238号に戻り南下すると目梨泊岬(めなしどまりみさき)が地図にありますが、この岬はあるのかどうか良くわかりません。 次に登場するのは、枝幸港の北に突き出したウスタイベ岬です。ウスタイベとは、アイヌ語でウス・ウシタイペ・ぺッ(入江・林・川)に由来。 国道から外れて岬を一巡する道に入ると、先端の草原部分がキャンプ場となっており、その海岸線にあるのがウスタイベ千畳岩。 ウスタイベ千畳岩は、一面に畳を敷きつめたような巨大なブロック状の安山岩が波打

          北海道の岬めぐり11 ウスタイベ岬

          北海道ゆかりの人たち 岩村 通俊

          岩村 通俊(いわむら みちとし) 天保11年6月10日(1840年7月8日) 大正4年(1915年)2月20日)享年76歳 明治時代に農商務大臣、鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた官僚、政治家。現在の「札幌ススキノ」の元を造った人。 生い立ち 天保11年(1840年)土佐藩・岩村英俊を父に、長男として土佐国(高知県)宿毛で生まれ、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学びました。 明治2年(1869年)、29歳で開拓使新設に伴い箱館開拓判官として函館に赴

          北海道ゆかりの人たち 岩村 通俊

          北海道人のルーツ10 官軍乙部上陸

          官軍乙部(おとべ)上陸 赤丸→乙部町(新政府軍上陸)  青丸→森町(旧幕府軍上陸) 紫丸→函館(五稜郭) 明治元年12月28日、蝦夷共和国として全島を平定して機構を整備しましたが、イギリス・フランスなど列国は局外中立の立場を解除します。 旧幕府軍がアメリカから購入した甲鉄艦が横浜に繋留されていました。 強力な鋼鉄装甲を新政府は渡すよう交渉を進めていたのです。開陽丸は新鋭ではありましたが木造でした。 中立解除によって、とうとう新政府に渡されることになります。 このことは開

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          蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜

          砂金のゴールドダッシュは約半世紀続き下火になりましたが、明治に入ってから再度復活します。蝦夷の地は、まさに「黄金の国」だったのです。 今日でも町興しの一環で「砂金祭り」が残っています。 砂金と入れ替わりに江差の檜山が松前藩の財源となりました。 上ノ国天の川より厚沢部にかけての檜山の木材でした。この檜は檜に似たアスナロで、寛永の福山館修築にも用いられています。 延宝6年(1678)厚沢部山を開放し、檜山奉行を置いて取り締まり、山師から運上金をとって伐採を始めました。 元禄期に

          蝦夷の時代18 松前藩の財政・檜

          北海道の山めぐり10 樽前山

          樽前山(たるまえざん) 支笏湖の南側、苫小牧市の北西部にゆったりと裾野を広げ、頂上部に端正な溶岩ドームを持つ活火山です。 寛永7年(1667年)8月以降70回以上の噴火を繰り返し、明治7年2月の大噴火は、それまであった溶岩ドームを吹き飛ばす凄まじさだったといいます。 山名はアイヌ語のタオルマイ(川岸の高いところ)からですが、原名はウフイヌプリ(燃える山)で、荒れ狂う山とアイヌ民族は表現していました。 明治42年の大噴火で新山が隆起して現在の溶岩ドームが形成されました。

          観光客が行かない函館の旅・前編

          今年は函館公園の桜が例年より早く満開になるというので久しぶりに函館に行ってきました。毎年ゴールデンウィークと重なるので敬遠していました。 トップの写真で右に見える白い建物は、市立函館博物館本館です。函館には本館以外に郷土資料館・北方民族資料館・北洋資料館・文学館があります。 この本館には函館飛行場近くで発掘された「北海道志海苔中世遺構出土銭」を含む考古資料、アイヌ風俗画などの美術工芸資料、ペリー来航・箱館戦争・函館大火などに関する歴史資料などが展示されています。 博物館の

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